【哲学的な…】人間機械論を検証する(その3)
さて、先の記事で取り上げたインワーゲンの帰謬論証は、哲学の界隈では大いに話題になったそうであります。
しかしながら、わたしはこの論証には難点があると思えてなりません。
インワーゲンは分析哲学に属している哲学者らしいので、「この世界のあらゆる事象を表している、すべての命題」などという、アイディアを平気で使っていますが、それが自然法則(インワーゲンの元の論文では自然法則とあります)に乗って取っていようが、あるいは自然法則に乗っていまいが、そのような「全世界的命題」はどのようにして示されるというのでしょうか?
または、そのような全世界的命題は、そもそも存在するのでしょうか?
分析哲学という哲学学派は、考えられる考察の対象である、物事や事態をなんでもかんでも、やれ命題だの、やれ論理学の式だのに、当て込むことが多いように見えます。まさにこの点が分析哲学の方法的な問題なのです。なぜならこの世界であれ、自由意思であれ、化学の化学反応であれ、論理学のどのような論理式と命題に「還元されない」し、「表し」えないからです。
たとえば(事例として、なんでもいいのですが)
銅Cuを加熱すると、酸化銅CuOになります。
化学式は以下。
2Cu + O2 → 2CuO
さて、この化学反応は果たして、インワーゲンが言うような全世界的命題を構成できる一つの単位としての「自然法則としての命題」として表せるものでしょうか?
または簡単な例として、ニュートン力学の計算事例は、「自然法則としての命題」なのでしょうか?
わたしの考えでは、色気も何もなく、ニュートン力学の計算はニュートン力学であり、それ以外ではなく、上記の酸化の化学式は酸化の化学式であるだけであって、それ以外ではない、すなわち、これらはインワーゲンが言うような、「自然法則にのっとった命題」ではないと、わたしは考えます。
もっと卑近な事例もあげておきます。
たとえば年頃の女子が、
つまり、世界を自然法則で、すべて表せるような「論理的な連言」で連結された「命題」など、そもそも存在しないという意見を持ちます。それはどこにありますか?
もっというと、それはただのアタマがいいインテリの、「イメージ」であって(笑)インワーゲンの論証とは、分析哲学者にとってのみ分かりやすいイメージについてのイメージの証明であると、わたしは思います。
この世界の個々の事象や物理法則は、一階述語論理に遡上に乗せられて、命題としてすべて提示できるものではないとわたしは述べておくだけにして、今回の記事はこの辺で(笑)
分析哲学の元になったウィトゲンシュタインの論文を曖昧な記憶で引用します。
「命題は事態を写像する」
これが間違い、命題は事態を写像しないのです。
もちろん、論理は、回路としてはコンピュータやマイコンの電子回路の中にあり、論理式は論理学の本の中にだけ、存在はしています。しかしながら、ドロンコやブラックホールは論理の式を充足するような対象ではない。
この世界も物理宇宙も、論理的ではないのです。
(続く)