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【哲学的な…】人間機械論を検証する(その4)

【哲学的な…】人間機械論を検証する(その4)

 

さて、続きであります。

この方のブログのまとめが、あまりにも素晴らしいので、再度、引用させていただきます。

自由と決定論は両立できないか<心は実在するか1>: 独今論者のカップ麺

 

わたし自身は、主に西洋哲学を独学で学び、(独学とはいえ10年ぐらいやっているので、多少なりとも、語ってもいいでしょう)、それらを見るにつれ、哲学にはそれぞれの難問(アポリアと、ギリシャ語で呼ばれたりします)に突き当たり、堂々巡りの議論が循環したり、たまに新しい問題点提起や、新しいテクニックが、出てきたりしました。そのように見受けられます。

わたしの見るところ、近代哲学の問題点は、ただ2つだけです。

日常での言語で、思考している」ところ。

日常の自然言語は、誰かと対話したり、客先とやり取りしたり、そういう状況ではほぼ万能かもしれません。

それに加えて、分析哲学では、命題と論理式を分析するという独自の手法を取り入れました。

わたしの見解では、哲学的な目的のために、論理学を拡張するのではなく、ただ化学や物理学を「そのまま」学べばいいということです。

化学や生物学やまたは、経済学は、それ自体で、そのまま思考の軌跡として、カタチまたはシステムとして、存立しており、それを哲学的な命題に、なんとなく〜還元できないものだと感じます。あくまでもフィーリングの話ですが。(笑)

舐めてもらっては困ります。ケミストリーこと、化け学を。

感動しまくって、わたしは微動だにできませんでした…。

 

さて、特定の哲学学派をくさすのは、辞めるとしまして、わたしなりの見解を書きたいと思います。もっとも、誰も見ていないブログでしょうから、わたしが何を語ろうが、それは「とあるお茶の間の、珍事」に過ぎません(笑)

 

先の記事で、「AIからのパクリ公式」について、言及しました。わたしは、AIのメカニズムを出来がワルイ頭で学習するにつれ、「これは決定論と自由意思の問題について、まったく新しい見方を備えてるものだ」という印象を受けました。

わたしは、このように考えました。

1、人間の自由意思があるかどうかは、難しいのでまったく分からないが、

人間以外の存在者に「自由意思がある」なら、その後人間にもそのルールと、システムを適応できるなら、人間にも自由意思はある。(と、みなしてもいい)

2、自由意思も決定論も、高度な有機化合物である、哺乳類生物より、

もしかしたら、システムの階層は、下部にあり、それによって成り立ったり成立しえないと、予期できる。

3、まさにインワーゲンが言うように、決定論では、おおよそこの自然法則がおおよそ成り立つというのは、決定論が成り立たない事態である。

 

これらの前提的な考察から、わたしは以下のように考えます。

1、Train(学習)によって、AIは出力する学習結果を変える。

2、trainの、与えられ方は一意ではない。簡単に言うと、その時の天候によっても、開かれた環境のAIにとっては、trainがまったく異なりえる。

 

3、trainつまり学習結果によって、入力に対して一意な出力を予め予期しえない、AIのメカニズムは、自由意思を持っている。

 

4、高等哺乳類は、すべてこのようなニューロンの連合を備えてると、予想していい。勿論それがAIと、まったく同一のメカニズムではなくても。

 

5、ゆえに、人間は自由意思を持ってます。

 

これらの考えは、先程簡単に紹介した「AIからのパクリ公式」について、解釈したものに過ぎません。Train(学習)によって出力YとそのバイアスBを可塑的に変化させる関数を、機械論的なメカニズムではないと、

解釈しただけのことです。

 

しかしながら、これはインワーゲンがいうような「自然法則」、それの働きと挙動として備わってるかどうかだけだあって、人間の行為とその責任という意味では、

人間は自由意思は持っておりません(笑)

 

美味そうな美食が出てきたら、当然かぶりつく(笑)

おそらく人は置かれた環境に、高度に、依存して、trainの内容が統計学的な確率分布であるときこそ、

自由意思を持てるのではないか?

安定的な環境からの入力から、まったくそうでない不安定な、不確実の環境への移行、そこでこそ、

統計学がいうポアソン分布でない、

自由意思が存するのではないか?

 

わたしの暫定的な結論と思索は、

自由意思とは、外部の環境に依存した、システムとして成されるものだ、

それは個人のその都度の意思や選考ではない、

状況に依存して、trainで得られるもので、多くの場合は、人は自由ではない決定論にしたがい、

しかし少ないわずかなケースでは、「自由に選び得る」

それはtrainの量による。

 

trainの量が少ない場合は、人はただの機械論にしたがう。そのとき人は決定論の、ただの機械の歯車になるのではないか。

このような曖昧な言辞で、締めくくります。

 

次回、さらに考察を進めます。

まったく、メリットはありませんが(笑)