エイケン13(eiken13_126)の彷徨えるブログ

彷徨える魂、のブログです。

それはデータの量に、よる

こんばんわ、移転したはずのブログで、まだ投稿してます。

それはハテナブログにも、それを使うユーザーにとっては、長所が沢山あるからです。

 

今回は、今は亡き、オウム真理教による、故人麻原彰晃氏のセリフから、あえて引用したいと思います。(笑)

 

「それはデータの量じゃないか?そうじゃないか?」

 

坂本弁護士殺害事件以後から、彼はこんなセリフを何度も言っていました。

 

彼によれば、データ量が大きい方の陣営の言い分を、他人は信じやすいと言っていました。

 

それから10年以上経って、これはまさしくそれだけに限れば、真実だな!と、わたしは思っています。

 

グーグルクロームを開けばオススメ記事が出てきて、あるいはどのアプリを開いても、誰でも閲覧できるアプリの記事が、オススメされる。

 

故人麻原彰晃のおかげで、わたしはそれを見ません。

「それはデータの量じゃないか?そうじゃないか?」

 

そうかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

Androidで、 Termux を使う(その1)

Androidスマートフォンをお使いの方、こんばんわ

iPhoneをお使いの方は、さようなら

ちょっとだけスマホに詳しい人ならとっくに知っている、Androidスマホの上で、擬似的なLinuxを実行できるアプリの紹介です。

Termux

 

Termux | F-Droid - Free and Open Source Android App Repository

 

1、Termuxを導入して使用すると、何ができるか?

2022年3月19日現在、Termuxというアプリは、グーグルプレイストアでは、公開されているヴァージョンが古臭く、

 F-Droidというアプリを最初にスマートフォンに導入してから、そのあと

Termuxの最新安定版を入手するようになっています。

Termuxでできること。

1、Linuxのコマンドが、スマートフォンで打てる!!!

2、rootを取らないでも、Linuxベースのスクリプトなどが、実行できる!

3、さらに外出先で、Termux上からC言語が書ける!!!

 

まず、1の理由だけでも、Termuxを導入するのは魅力的であります。

 

こんなことは、説明不要と思ってしまいますが、そもそもAndroidスマートフォンとそのソフトウェアは、Linuxベースの、それから独自にグーグルさんが勝手にカスタマイズした、独自のスマートフォン向けのOSということになります。

 

2、導入してみましょう!

しかし、メリットはほとんどないです。(笑)

 

今回は、ここで終わります。

 

 

【哲学的な…】人間機械論を検証する(その4)

【哲学的な…】人間機械論を検証する(その4)

 

さて、続きであります。

この方のブログのまとめが、あまりにも素晴らしいので、再度、引用させていただきます。

自由と決定論は両立できないか<心は実在するか1>: 独今論者のカップ麺

 

わたし自身は、主に西洋哲学を独学で学び、(独学とはいえ10年ぐらいやっているので、多少なりとも、語ってもいいでしょう)、それらを見るにつれ、哲学にはそれぞれの難問(アポリアと、ギリシャ語で呼ばれたりします)に突き当たり、堂々巡りの議論が循環したり、たまに新しい問題点提起や、新しいテクニックが、出てきたりしました。そのように見受けられます。

わたしの見るところ、近代哲学の問題点は、ただ2つだけです。

日常での言語で、思考している」ところ。

日常の自然言語は、誰かと対話したり、客先とやり取りしたり、そういう状況ではほぼ万能かもしれません。

それに加えて、分析哲学では、命題と論理式を分析するという独自の手法を取り入れました。

わたしの見解では、哲学的な目的のために、論理学を拡張するのではなく、ただ化学や物理学を「そのまま」学べばいいということです。

化学や生物学やまたは、経済学は、それ自体で、そのまま思考の軌跡として、カタチまたはシステムとして、存立しており、それを哲学的な命題に、なんとなく〜還元できないものだと感じます。あくまでもフィーリングの話ですが。(笑)

舐めてもらっては困ります。ケミストリーこと、化け学を。

感動しまくって、わたしは微動だにできませんでした…。

 

さて、特定の哲学学派をくさすのは、辞めるとしまして、わたしなりの見解を書きたいと思います。もっとも、誰も見ていないブログでしょうから、わたしが何を語ろうが、それは「とあるお茶の間の、珍事」に過ぎません(笑)

 

先の記事で、「AIからのパクリ公式」について、言及しました。わたしは、AIのメカニズムを出来がワルイ頭で学習するにつれ、「これは決定論と自由意思の問題について、まったく新しい見方を備えてるものだ」という印象を受けました。

わたしは、このように考えました。

1、人間の自由意思があるかどうかは、難しいのでまったく分からないが、

人間以外の存在者に「自由意思がある」なら、その後人間にもそのルールと、システムを適応できるなら、人間にも自由意思はある。(と、みなしてもいい)

2、自由意思も決定論も、高度な有機化合物である、哺乳類生物より、

もしかしたら、システムの階層は、下部にあり、それによって成り立ったり成立しえないと、予期できる。

3、まさにインワーゲンが言うように、決定論では、おおよそこの自然法則がおおよそ成り立つというのは、決定論が成り立たない事態である。

 

これらの前提的な考察から、わたしは以下のように考えます。

1、Train(学習)によって、AIは出力する学習結果を変える。

2、trainの、与えられ方は一意ではない。簡単に言うと、その時の天候によっても、開かれた環境のAIにとっては、trainがまったく異なりえる。

 

3、trainつまり学習結果によって、入力に対して一意な出力を予め予期しえない、AIのメカニズムは、自由意思を持っている。

 

4、高等哺乳類は、すべてこのようなニューロンの連合を備えてると、予想していい。勿論それがAIと、まったく同一のメカニズムではなくても。

 

5、ゆえに、人間は自由意思を持ってます。

 

これらの考えは、先程簡単に紹介した「AIからのパクリ公式」について、解釈したものに過ぎません。Train(学習)によって出力YとそのバイアスBを可塑的に変化させる関数を、機械論的なメカニズムではないと、

解釈しただけのことです。

 

しかしながら、これはインワーゲンがいうような「自然法則」、それの働きと挙動として備わってるかどうかだけだあって、人間の行為とその責任という意味では、

人間は自由意思は持っておりません(笑)

 

美味そうな美食が出てきたら、当然かぶりつく(笑)

おそらく人は置かれた環境に、高度に、依存して、trainの内容が統計学的な確率分布であるときこそ、

自由意思を持てるのではないか?

安定的な環境からの入力から、まったくそうでない不安定な、不確実の環境への移行、そこでこそ、

統計学がいうポアソン分布でない、

自由意思が存するのではないか?

 

わたしの暫定的な結論と思索は、

自由意思とは、外部の環境に依存した、システムとして成されるものだ、

それは個人のその都度の意思や選考ではない、

状況に依存して、trainで得られるもので、多くの場合は、人は自由ではない決定論にしたがい、

しかし少ないわずかなケースでは、「自由に選び得る」

それはtrainの量による。

 

trainの量が少ない場合は、人はただの機械論にしたがう。そのとき人は決定論の、ただの機械の歯車になるのではないか。

このような曖昧な言辞で、締めくくります。

 

次回、さらに考察を進めます。

まったく、メリットはありませんが(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【哲学的な…】人間機械論を検証する(その3)

さて、先の記事で取り上げたインワーゲンの帰謬論証は、哲学の界隈では大いに話題になったそうであります。

しかしながら、わたしはこの論証には難点があると思えてなりません。

インワーゲンは分析哲学に属している哲学者らしいので、「この世界のあらゆる事象を表している、すべての命題」などという、アイディアを平気で使っていますが、それが自然法則(インワーゲンの元の論文では自然法則とあります)に乗って取っていようが、あるいは自然法則に乗っていまいが、そのような「全世界的命題」はどのようにして示されるというのでしょうか?

または、そのような全世界的命題は、そもそも存在するのでしょうか?

 

分析哲学という哲学学派は、考えられる考察の対象である、物事や事態をなんでもかんでも、やれ命題だの、やれ論理学の式だのに、当て込むことが多いように見えます。まさにこの点が分析哲学の方法的な問題なのです。なぜならこの世界であれ、自由意思であれ、化学の化学反応であれ、論理学のどのような論理式と命題に「還元されない」し、「表し」えないからです。

 

たとえば(事例として、なんでもいいのですが)

銅Cuを加熱すると、酸化銅CuOになります。

化学式は以下。

2Cu + O2 → 2CuO

さて、この化学反応は果たして、インワーゲンが言うような全世界的命題を構成できる一つの単位としての「自然法則としての命題」として表せるものでしょうか?

または簡単な例として、ニュートン力学の計算事例は、「自然法則としての命題」なのでしょうか?

わたしの考えでは、色気も何もなく、ニュートン力学の計算はニュートン力学であり、それ以外ではなく、上記の酸化の化学式は酸化の化学式であるだけであって、それ以外ではない、すなわち、これらはインワーゲンが言うような、「自然法則にのっとった命題」ではないと、わたしは考えます。

もっと卑近な事例もあげておきます。

たとえば年頃の女子が、

 

つまり、世界を自然法則で、すべて表せるような「論理的な連言」で連結された「命題」など、そもそも存在しないという意見を持ちます。それはどこにありますか?

 

もっというと、それはただのアタマがいいインテリの、「イメージ」であって(笑)インワーゲンの論証とは、分析哲学者にとってのみ分かりやすいイメージについてのイメージの証明であると、わたしは思います。

この世界の個々の事象や物理法則は、一階述語論理に遡上に乗せられて、命題としてすべて提示できるものではないとわたしは述べておくだけにして、今回の記事はこの辺で(笑)

 

分析哲学の元になったウィトゲンシュタインの論文を曖昧な記憶で引用します。

「命題は事態を写像する」

これが間違い、命題は事態を写像しないのです。

 

もちろん、論理は、回路としてはコンピュータやマイコンの電子回路の中にあり、論理式は論理学の本の中にだけ、存在はしています。しかしながら、ドロンコやブラックホールは論理の式を充足するような対象ではない。

この世界も物理宇宙も、論理的ではないのです。

 

(続く)

【哲学的な…】人間機械論を検証する(その2)

【哲学的な…】人間機械論を検証する(その2)

人間は、機械なのか?(笑)

 

この場合の議論で、「機械」というメタファーで呼ばれてる事柄がなにを示してるのでしょうか?そのとき、「人間は機械に似ている」または「機械的な、決定機構がなんらか存在して、人間は機械のような歯車で動いている」というようか意味合いであると、解釈していいと思います。

つまり、人間機械論は、

「人間を主語にした」決定論の一種であると、決めつけてもいいのではないか?と思えます。

 

決定論

 

決定論には、それが成立するとされる、いろいろなレベルやいろいろなレイアー(階層)があり、それらがその都度識者によって論じられているみたいです。

この決定論に相対するのは、勿論自由意思であり、この自由意思が「まぎれもなく厳然として存在している」ことです。

自由意思がふんだんに、絶え間なく存立している状況では、決定論はそれが機能していないと素直に考えても、矛盾はしません。

片や、自由意思など本当はないんだよ!あると思ったのぉ!?ということになれば、決定論の知られざる決定論的メカニズムで、多くの物事は決定されていると思ってもおかしくはないでしょう。

 

このとき、決定論が成り立つ事態または、成り立たない事態を、公式のように、ある形に落とし込みたいと考えます。

すなわち、入力x1、x2、x3…について、出力yを計算する関数Yがあり、

そのとき、入力Xについて、個々の入力の数値について、すべての出力が「一意に」決定する、

これが決定論であると、わたしは考えます。

したがって、このとき、入力x1に対して、出力はy1であり、入力x2に対して出力y2であり、……以下同様であります。

これに対しては簡単に数式化できます。

あとそれから、この関数Yに対して、出力y1、y2、y3に、「重みづけ」の数値を計算を与えるバイヤスBを加えます。

これは実は、AI(人工知能)が、パーセプトロンという数理モデルで、コンピューターの中で実装していることです。

以下、これを「AIからのパクリ公式」と呼ぼうと思います。(笑)

 

もしも、このとき、「いや、それはおかしい。決定論はもっと複雑なメカニズムで動くこともありえる」という反論も、予想されるでしょう。それもまったくありえる話しですが、そうなれば、今度はそうした複雑な、決定論的なメカニズムを「いかにして知ることができるかどうか」という、認識が可能がどうかというような、複雑な話しになだれ込まます。決定論を支持する人は、今度はいかにしてそれが見出されるかを説明しなければならない。

 

たとえば、今日わたしがあるところで、可愛らしい子供を目にして、微笑んだとします。自由意思があるならば、微笑まないこともできたということになります。

議論がややこしいのは、そうしたありそうなことの累積で、話しが決まるのではなく、常識的なありえることが多く起きても、自由意思と決定論の決着には、なんら資するとはないのは、簡単にわかります。

 

この本、

 

未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論 (光文社新書) | 妹尾 武治 |本 | 通販 | Amazon

 

は、決定論側の陣営みたいです。

 

また海外での調査によると、「高い知識と高い教養を持ってる人」は決定論に陥りやすいそうです。

 

また哲学的な意味での、「決定論と自由意思」については、わたしは哲学者インワーゲンの「帰謬論証」がかなり参考になると考えています。

ここのブログを参考にさせてもらうことにします。ここで哲学的インワーゲンの論証がわかりやすく紹介されています。

自由と決定論は両立できないか<心は実在するか1>: 独今論者のカップ麺

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

【哲学的な…】人間機械論を検証する(その1) 人間は、機械なのか?(笑)

【哲学的な…】人間機械論を検証する(その1)

人間は、機械なのか?(笑)

 

人間機械論 - Wikipedia

 

前回のブログ投稿で、中国の伝統派宗教である、道教のトピックをあげた。そのシリーズはこれからもまた気まぐれに継続しますが、わたしは色々な事柄に同時多発的に調べていく趣味がありますので、今回は「人間機械論」を取り上げます。

現実の社会的な生活を現代日本で、人間が、機械かどうかは、実際問題、余り問題にはなりません。
人間が機械であるか、それとも名前のない透明なナマコであるのか?という疑問提示よりも、近所のスーパーの品物は比較的安いか、目の前の異性はこちらに好意があるかどうか?そうした下世話な(笑)現代生活のポイントが最高の優先事項であり、それ以外のことは、人は多くの場合、どぉーーーーーーーでもいいのであります。
しかしながら、今回は近代思想史の一里塚になった人間機械論をちょっとだけ、見ていくことにします。

私個人が「人間機械論」を知ったのは、忘れかけてますが、おそらく19の時、ド・ラ・メトリの著作と、トム・ソーヤの冒険で有名な小説家、マーク・トゥエインの晩年の著作「人間とはなにか?」を読んだからです。
なぜそれらの著作を読んだのか。多分暇だったでしょう(笑)

これから何年も経って、今度は脳科学(学問として正確には、神経科学)が発展していき、独自の決定論を提示してきました。そのとき、活躍していたのは、もっぱら心理学の一大学派である、認知科学だったと思います。

このブログ投稿では、数式や画像イメージを載せるのは、そこそこ難しいので、今回は安易にコトバのみで、少し話していきます。

それからまた何年も経って、今度は、現代にまで時代は経緯してAIとブロックチェーン原油高がどこで起きてるのか分からない、知らされていないものたちによる、不透明なグローバル経済の時代になってきました。
あと、上記、ド・ラ・メトリと、マーク・トゥエインの著作は、本当に、純粋にエンターテインメントとしてとしても面白く、わたしはこれまでに3回ぐらいは読み直したかもしれません。

さて、本題に参りましょう。
「人間は、機械か?」
この場合現代では、人間や動物は、生体高分子でタンパク質結合された物体でも、ありますから、そこから高度な認知や言動が出てきても、「いや、機械かもしれない」と言いやすいかもしれません。

(続く)